狩野(松本)、三蔵法師、釈迦

釈迦堂 - 成田山新勝寺

国指定重要文化財 1858年建立(安政5年)

 

二十四孝

 

新勝寺光明堂

 

司馬温公の瓶割り【しばおんこうのかめわり】と言う逸話があります。昔の中国の政治家であり学者でもあった司馬温公(司馬光)の子供時代の逸話です。古くて大きな大変貴重な水をためるための瓶がありました。その周囲で子供たちが遊んでいると、一人の子供が瓶の中に落ちてしまいました。このままでは落ちた子供は死んでしまいます。このとき、迷うことなく近くにあった大きな石で瓶を割って子供を助けたのが幼少期の司馬温公です。どんなに貴重な物でも人の命には代えられない。命の尊さを教える話です。しかし、この話で大切なのは、人の命と貴重な品物を天秤にかけて人の命を救ったということではないと私は考えています。大切なことは、迷うことなく瓶を割ることができたことです。仏教では、ものごとを2つに分けて考える分別を嫌います。一般的には軽率なことを意味する“無分別”を仏教では“区別しない・こだわらない・ありのままに受け入れる”と捉えて大切にします。
馬温公の瓶割りは、命か貴重品かを選ぶ分別の大切さを説く話ではなく、瓶を迷うことなく割った無分別の説く話だと私は考えています。では、どうしたら仏教が説く無分別な行動ができるようになるのでしょうか。これにはもちろん日々の行いが必要です。様々な行いがありますが、御先祖様の供養もそのひとつです。御先祖様に手を合わせたときに、お願い事をしたり見返りを求めるということはありません。このように、誰かの為に見返りを求めずに手を合わせる姿こそが無分別の姿であり、無分別な行動そのものです。このような行動の積み重ねこそが仏教が説く無分別な行動ができるようになるための一歩になると私は考えています。

 

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幕末の江戸に生きた、知られざる絵師・狩野一信(かずのぶ)(1816~63)。
15世紀から19世紀まで約400年続いた狩野派の最後を飾る、異色の存在です。これまで、ごく一部の専門家の間ではきわめて高く評価されてきましたが、一般的にはまだあまり知られていません。
一信は幼くして幕末表絵師・狩野章信に入門しますが、12歳のころは没し、以後ほぼ独学で絵を究め、寺院等の要望にこたえ、増上寺の五百羅漢図100幅をはじめとする入魂の大作を遺しました。狩野派の伝統的手法に加え、当時日本に伝わった洋風の陰影法、遠近法を積極的に取り入れたその画風は、従来の狩野派はもちろん、それまでの日本における絵画表現の常識を突き抜けた、強烈な表現意欲によるものです。一信は独力で磨き上げた技術を駆使し、幕末という不安な時代の空気を濃厚に反映した、新たな宗教観にもとづく絵を遺しました。

五百羅漢とは?

羅漢は釈迦の弟子として、すでにこの世にいない釈迦の残した法を求め、それを悟ったものとして人々に信仰されてきました。五百羅漢という形式の作例は、古くは中国・南宋時代(12世紀)の林庭珪(りんていけい)・周季常(しゅうきじょう)の合作によるもの(大徳寺、ボストン美術館、フリア美術館に分蔵)があります。中国で盛んだった羅漢信仰が日本に伝わり、輸入された中国絵画にならった南北朝時代(14世紀)の吉山明兆(きつざんみんちょう)によるもの(東福寺、根津美術館に分蔵)などが知られています。
そして江戸時代中期以降、各地で様々な五百羅漢の画像や木彫、石像が盛んに制作されるようになります。五百羅漢を訪ねれば、いまは亡き大切な人に対面できるという信仰が一挙に広まりました。また制作に想像を絶する時間と労力が必要なことから、ひたすら打ち込んで造るという功徳に対する願いも反映されて、「羅漢ブーム」ともいえる現象が起こりました。

狩野一信の五百羅漢とは?

羅漢図は十六羅漢図、十八羅漢図、あるいは単体の羅漢や釈迦とともに描かれたものなどが知られていますが、一信はそういった過去の作例を学習しつつ、1幅に5人ずつ、計500人の羅漢を描く空前絶後の100幅を構想しました。それぞれ人の背丈ほどの大きさの画面(高さ約172cm、幅約85cm)いっぱいに、羅漢たちの修行や日常の姿、衆生を救済する様子が、その弟子、供養者とともに、さまざまな場面のなかに極彩色で描かれています。
一信は約10年の歳月を五百羅漢図の制作に費やし、その間、他の作品をほとんど描いてないと推測されますが、残念ながら、96幅まで描き終えた数え年48歳で病没し、残り4幅は妻・妙安(みょうあん)、弟子・一純(かずよし)らが補って完成させ、文久3年(1863)に増上寺に奉納されました。

 

釈迦堂五百羅漢の彫刻
釈迦堂周囲の八枚の堂羽目には五百羅漢の彫刻が、はめ込まれています。
五百羅漢とは,
仏の滅後に行われた第 1 回目の経典編纂(結集(けつじゆう))に集まった仏弟子のこと。
狩野一信(38 歳)が下絵を描き、松本良山(53 歳)に彫刻を依頼したが最初は断ったが、
しかし良山も最後の仕事と引き受けたようです。
1853 年暮れに奥さまと弟子 3 人を連れ成田の大野屋旅館の離れに居を構え、醸造元鍋店の酒蔵の
片隅を仕事場として一枚彫りの五百羅漢を十年の歳月をかけて完成したと言われています。
しかし良山が作業を始めてから五年後の 1858 年に釈迦堂は完成しています。十年を信じると
釈迦堂建立時は四面しか完成していないことになり、それはおかしな話です。
私の研究では、四年余で完成しているようです。完成は 1857 年暮れか 1858 年の初め頃と推定。
いずれにせよ十年ではない。このことは別項「私の研究」で説明したいと思います。
狩野一信 (1816 年~1863 年)若くして亡くなる 47 歳没
芝増上寺の五百羅漢百幅を描いたことで有名です。96 幅描いて亡くなったが、残り 4 枚は
下絵のみが描かれていたので弟子(養子)が完成させた。
良山に五百羅漢の彫刻を依頼してから 10 年後に亡くなっています。
松本良山 (1801 年~1872 年)
千葉県船橋市の出身で子供のない仏具店を営む夫婦の養子となる。しかし良山が十三歳の時
この夫婦に男の子が生まれる。良山は立場が変わったのか家出をして京都の彫り師の弟子となり
十年の修行を積む。仏師として認められた良山は東京に戻り更に十年の板彫りの修行をして、
一人前の彫工として独立する。
羅漢とは
阿羅漢の略称で「尊敬される人」あるいは「施しを受けるに値する人」という意味を持つ、
お釈迦さまの高弟や最高位に達した修行者を指す。
表情豊かな五百羅漢の中には、亡き人を思わせる顔立ちの羅漢さまが必ずいるといわれます。
そのことから「五百羅漢をお参りすると亡き人に会える」「供養につながる」という信仰が
生まれ、人びとの間に広がっていきました。成田では、亡き人の面影を偲び、追善供養の祈りを
込めてお参りする風習が昔はあった様です。

 

釈迦堂 - 成田山新勝寺

国指定重要文化財 1858年建立(安政5年)

 

                 2022年基準

 

江戸 1600~1867年 約260年  417年前

明治 1868~1912年   45年  157年前

大正 1912~1925年   14年  112年前

昭和 1926~1989年   64年   98年前

平成 1989~2019年   30年   34年前

令和 2019~         4年    4年前

 

光明堂  1701年  321年前  江戸中期

三重塔  1712年  310年前   〃

仁王門  1830年  192年前  江戸末期 

釈迦堂  1858年  164年前   〃

額堂   1861年  161年前   〃  

 

鐘楼   1701年  321年前

一切経堂 1722年  300年前

開山堂  1938年   84年前 開基1000記念

大本堂  1968年   54年前 開基1030記念

総門   2007年   15年前 開基1070記念

 

倶利伽羅は負の感情、憎しみ怒り羞恥貧困などを浄化する力を持つとされています。特に、倶利伽羅竜王が燃える炎は倶利伽羅剣となり不動明王の武器又は不動明王自身となり、邪な心を切り付け、燃やし消し去ると言われています。

 

【火消しのめ組とは】簡単にわかりやすく解説!!江戸の火消制度についても! | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイト

江戸時代というと「火消」が話題に上ることが多く、その中でも「め組の辰五郎」については、後に歌舞伎の題材になるくらい有名です。 「火事と喧嘩は江戸の華」というよ…

~江戸連『講』の由来~
◆江戸時代の「講」には、「伊勢講」「富士講」に代表される信仰に基づくものと、「頼母子講」「無尽講」に代表される経済的相互扶助を目指すものの二種類があった。どちらも、「講」のメンバーが定期的にお金を積み立て、そのお金で前者の場合には何人かずつを「講」の代表として伊勢詣・富士詣に送り出そうとするものであり、また後者の場合には籤引きなどに当たった人がまとまったお金を優先的に利用できるシステムであった。伊勢詣も富士詣も日本の信仰の旅は同時に「物見遊山」の旅でもあった。「連れ立ってあちこちの名所旧跡を訪ね、知的好奇心を満足させようとする」旅でもあった。

◆翻ってわが江戸連の「講」には、信仰や経済的扶助という精神は一切ないが、「同好の士が群れて、旺盛な好奇心で共に学び合い、連れ立って物見遊山を楽しむ」という点では、江戸時代の「講」の精神に一脈通じるものがあると思っている。これまで江戸連では、「七福神巡り」「日本橋の老舗巡り」「小江戸巡り」「江戸の坂と史跡巡り」「江戸の川巡り」「長崎の旅」「関東の歴史バスツアー」や落語・歌舞伎・能などの「古典芸能の鑑賞会」そして江戸学についての各種「講演会」などを「講」として実施してきた。さらに最近では、江戸連の中に連衆が自主的に立ち上げた「蕎麦連」や「投扇連」が発足して、新たな「講」が活発な活動を展開するようになっている。

◆江戸連は2002(平成14)年に少人数で発足したが、10周年となった2012(平成24)年には60人を超す大人数の組織になった。今後、どのような「講」の活動を行っていったらよいかが大きな課題であるが、「蕎麦連」や「投扇連」のような「連内連」のあり方は一つの方向性を示すものだと考えている。江戸連ではこれからも江戸連らしい魅力的な「講」を企画していきたいと思っているので、連衆のみなさまの積極的なご意見・ご要望をお待ちしている。

 

 

不動明王真言の7つの効果と唱え方とは?本当の意味と梵字・印・除霊についても! (spilinkage.com)

 

 

MSN で見つけたおすすめの記事です: 仏陀の「悟り」と異なる密教の「覚り」、その終着点

http://a.msn.com/01/ja-jp/AA12QHAq?ocid=se

 

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【成田】意外と知らない!成田山新勝寺参道を曲がれば花街の残り香 | Deepランド (deepland.blog)

 

成田山 仏の在所

 

総門  2階 八体仏

千手観音菩薩(子歳) 虚空蔵菩薩(丑・寅歳) 文殊菩薩(卯歳) 

普賢菩薩(辰/巳歳)勢至菩薩午歳) 大日如来未/申歳) 

不動明王酉歳) 阿弥陀如来(戌/亥歳)

仁王門

門の右に口を開いた阿形の那羅延金剛像を、左に口を閉じた吽形の密迹金剛像を奉安しています。多聞天 多目天

三重塔  五智如来

密教の五智をそれぞれそなえた如来。大日法界体性智ほつかいたいしようち)・阿閦あしゆく(大円鏡智)・宝生ほうしよう(平等性智)・阿弥陀(妙観察智)・不空成就(成所作智じようしよさち)の五如来

16羅漢

 

 

大本堂

中央… 不動明王 …大日如来の教令輪身

東方… 降三世明王 … 阿閦如来 の教令輪身 ごうざんぜ

南方… 軍荼利明王 …宝生如来の教令輪身  ぐんだり

西方… 大威徳明王 … 阿弥陀如来 の教令輪身 だいいとく

北方… 金剛夜叉明王 …不空成就如来の教令輪身 こんごうやしゃ

裏仏  聖徳太子 大日如来 虚空蔵菩薩

釈迦堂

左から 普賢菩薩 釈迦如来 文殊菩薩 釈迦三尊

裏仏  大日如来 

   壁面   500羅漢 

光明堂 縁結ぶ

左から 不動明王 大日如来 愛染明王

奥の院 厄除け

大日如来 

 

医王殿 平癒

左から 月光菩薩 薬師如来 日光菩薩 12神将

宮毘羅(くびら)大将 伐折羅(ばさら)大将迷企羅(めきら)大将安底羅(あんてら)大将

頞儞羅(あんにら)大将珊底羅(さんてら)大将因達羅(いんだら)大将 波夷羅(はいら)大将摩虎羅(まこら)大将真達羅(しんだら)大将招杜羅(しょうとら)大将 毘羯羅(びから)大将

平和の大塔

   立体曼荼羅 不動明王 (大本堂と同じ)

本堂裏崖

   役小角行者 不動明王 8大童子 36童子

1.矜迦羅童子(こんがら) 2.制叱迦童子(せいたか) 3.不動恵童子(ふどうえ) 4.光網勝童子(こうもうしょう) 5.無垢光童子(むくこう) 6.計子爾童子(けいしに) 7.智慧幢童子(ちえどう) 8.質多羅童子(しちたら) 9.召請光童子(ちょうしょうこう) 10.不思議童子(ふしぎ) 11.羅多羅童子(らたら) 12.波羅波羅童子(はらはら) 13.伊醯羅童子(いけいら) 14.獅子光童子(ししこう) 15.獅子慧童子(ししえ) 16.阿婆羅底童子(あばらち) 17.持堅婆童子(じけんば) 18.利車毘童子(りしゃび) 19.法挾護童子(ほうきょうご) 20.因陀羅童子(いんだら) 21.大光明童子(だいこうみょう) 22.小光明童子(しょうこみょう) 23.仏守護童子(ぶつしゅご) 24.法守護童子(ほうしゅご) 25.僧守護童子(そうしゅご) 26.金剛護童子(こんごうご) 27.虚空護童子(こくうご) 28.虚空蔵童子(こくうぞう) 29.宝蔵護童子(ほうぞうご) 30.吉祥妙童子(きちしょうみょう) 31.戒光慧童子(かいこうえ) 32.妙空蔵童子(みょうくうぞう) 33.普香王童子(ふこうおう) 34.善你師童子(ぜんにし) 35.波利迦童子(はりか) 36.烏婆計童子(うばけい)

 

こわれ不動右・雄飛滝・石摺不動

不動明王 矜迦羅童子 制叱迦童子

 

 

 

 

投稿者プロフィール

敏次三橋